宿命的アドリブの年齢、あるいはアインバーンシュトラーセ Unfamiliar Age

ひとは生まれたら死ぬ、そういうふうに決められていて、この答えのない時代に答えがあることはとてもありがたい。先に死んでいった友人たちは、みなひとしく解答者でもあった。私が誤答や誤答罰をこわがってまだなまぬるい生にしがみついているあいだに、とっくに、答えを見つけている。

ひとは年をとる、そういうふうに決められていて、この区切りのない時代に区切りがあることはとてもありがたい。年をとったら祝う。区切る。やりなおす。自己像を改訂する。加年することは「改訂可能な revisable」な自己について知り直す機会なのだろう。

私はいま二十九歳で、来月になれば三十歳になる。「三十歳」という枠組みのなかで、まわりを見れば、負け組、勝ち組、独身、既婚、安定、独立とか、同い年がほかの同い年のステータスをどうにかして見下そうとしていて、その足並み、それらのことばにすこしでもリズムが合ってしまうと、私みたいな人間は不幸でかわいそうでみじめなやつになる。

十代のときは十代であるがゆえに侮られ、二十代のときは二十代であるがゆえにみくびられ、そのたび「プラス十歳ぐらいあれば」とひりついたものだったけれど、それは十歳分のディスアドバンテージなんかではなくて、むしろ「年齢」のことばで固定的に語られることの停滞性への抵抗だったのだと思う。改訂不可な目線で見切られることが、腹ただしかったのだと思う。

私はいつだって、老いと若きのどちらにも挑む攻めのファイターでありたい。「人間の細胞は七年ですべて入れ替わる」というインターネットのおもしろ与太話は置いとくにしても、やはり妥当な生成変化を繰り返す存在でありたいと願う。私が昨日たべたチーズバーガーを消化まで送り届けて死んでいく過激で短命な第一線ではたらく胃腸の細胞のように、あるいは生まれてからめったに変わることない常勤の心筋細胞のように、さまざまな生成変化の在りかたを受け入れてみたい。

だから、何歳だっていいよ、というのが究極の意見。七年目の心筋細胞に「お前もう七年目だぞ、はやく死滅しろよ」と言っても仕方ない。ぜんぶがアドリブで、右手でやろうと思っていた改訂を左手でやらねばならなかったり、ゆっくりじっくり計画的にやろうと思っていた生成変化が火急対応になったり。一方で、昔からずっと得ることはないと思っていたものが突然ものの三日で手に入ったり、今後だれとも共有できないはずだったものが分かち合えたりもする。

それはなにもわからない。すくなくとも年齢ではない。私だけが思いを抱き続ける片思いのような、予想不可能で、緊急対応ばかりで、アドリブだけが頼りで、そんな途方もないどうしようもない道を歩いているみたいに感じられてくる。アインバーンシュトラーセ(Einbahnstraße)、ドイツ語で「一方通行の道」のこと。駆け抜けることしかできなくて、ままならないまま前進を強制されていて、離脱していった友人にさよならも言えない痛みとともに、空いた穴を塞ぐ余裕もないままに、どこかにたどり着くことを信じて行き先を知らない一方通行の道を歩んでいる。

年齢がいくつだからどうとか、何歳だからどうとか、「どうでもいいよ」と全力で言いふらせるほど社会の強者ではないし責任もとれないけれど、すくなくとも私自身のことにおいて私はそう思っていたい。有責でありたい。今日と明日の自己改訂とか、いつもやってるひとり反省会とか、あたらしいコミュニティに入るときの自己像の新調とか、そういうきっかけで起こる私の変化を宿命としてその場その場でたのしめたらうれしい。

変なことを言っているかもしれないし、そりゃあそうだろうと共感してくれるようなアインバーンシュトラーセを歩いているひともいるかもしれない。それはわからないけれど、身近なだれかが祝って区切ってくれるような社会的に可視化されている不慣れな年齢と、じぶんが死ぬまで孤独にソロで背負っていく宿命的アドリブの年齢の乖離のあいだにあるミッシングリンクが拾えたら、来月以降の「三十歳」のじぶんはよろこぶんじゃないだろうか。

Thanks
宿命的アドリブの年齢、あるいはアインバーンシュトラーセ Unfamiliar Age

ひとは生まれたら死ぬ、そういうふうに決められていて、この答えのない時代に答えがあることはとてもありがたい。先に死んでいった友人たちは、みなひとしく解答者でもあった。私が誤答や誤答罰をこわがってまだなまぬるい生にしがみついているあいだに、とっくに、答えを見つけている。

ひとは年をとる、そういうふうに決められていて、この区切りのない時代に区切りがあることはとてもありがたい。年をとったら祝う。区切る。やりなおす。自己像を改訂する。加年することは「改訂可能な revisable」な自己について知り直す機会なのだろう。

私はいま二十九歳で、来月になれば三十歳になる。「三十歳」という枠組みのなかで、まわりを見れば、負け組、勝ち組、独身、既婚、安定、独立とか、同い年がほかの同い年のステータスをどうにかして見下そうとしていて、その足並み、それらのことばにすこしでもリズムが合ってしまうと、私みたいな人間は不幸でかわいそうでみじめなやつになる。

十代のときは十代であるがゆえに侮られ、二十代のときは二十代であるがゆえにみくびられ、そのたび「プラス十歳ぐらいあれば」とひりついたものだったけれど、それは十歳分のディスアドバンテージなんかではなくて、むしろ「年齢」のことばで固定的に語られることの停滞性への抵抗だったのだと思う。改訂不可な目線で見切られることが、腹ただしかったのだと思う。

私はいつだって、老いと若きのどちらにも挑む攻めのファイターでありたい。「人間の細胞は七年ですべて入れ替わる」というインターネットのおもしろ与太話は置いとくにしても、やはり妥当な生成変化を繰り返す存在でありたいと願う。私が昨日たべたチーズバーガーを消化まで送り届けて死んでいく過激で短命な第一線ではたらく胃腸の細胞のように、あるいは生まれてからめったに変わることない常勤の心筋細胞のように、さまざまな生成変化の在りかたを受け入れてみたい。

だから、何歳だっていいよ、というのが究極の意見。七年目の心筋細胞に「お前もう七年目だぞ、はやく死滅しろよ」と言っても仕方ない。ぜんぶがアドリブで、右手でやろうと思っていた改訂を左手でやらねばならなかったり、ゆっくりじっくり計画的にやろうと思っていた生成変化が火急対応になったり。一方で、昔からずっと得ることはないと思っていたものが突然ものの三日で手に入ったり、今後だれとも共有できないはずだったものが分かち合えたりもする。

それはなにもわからない。すくなくとも年齢ではない。私だけが思いを抱き続ける片思いのような、予想不可能で、緊急対応ばかりで、アドリブだけが頼りで、そんな途方もないどうしようもない道を歩いているみたいに感じられてくる。アインバーンシュトラーセ(Einbahnstraße)、ドイツ語で「一方通行の道」のこと。駆け抜けることしかできなくて、ままならないまま前進を強制されていて、離脱していった友人にさよならも言えない痛みとともに、空いた穴を塞ぐ余裕もないままに、どこかにたどり着くことを信じて行き先を知らない一方通行の道を歩んでいる。

年齢がいくつだからどうとか、何歳だからどうとか、「どうでもいいよ」と全力で言いふらせるほど社会の強者ではないし責任もとれないけれど、すくなくとも私自身のことにおいて私はそう思っていたい。有責でありたい。今日と明日の自己改訂とか、いつもやってるひとり反省会とか、あたらしいコミュニティに入るときの自己像の新調とか、そういうきっかけで起こる私の変化を宿命としてその場その場でたのしめたらうれしい。

変なことを言っているかもしれないし、そりゃあそうだろうと共感してくれるようなアインバーンシュトラーセを歩いているひともいるかもしれない。それはわからないけれど、身近なだれかが祝って区切ってくれるような社会的に可視化されている不慣れな年齢と、じぶんが死ぬまで孤独にソロで背負っていく宿命的アドリブの年齢の乖離のあいだにあるミッシングリンクが拾えたら、来月以降の「三十歳」のじぶんはよろこぶんじゃないだろうか。

Thanks